シンポジウム「コレクティヴの現在」

9月 16, 2022

10月15日(土) 14:30-17:30
会場:センターホール
司会:三木 順子(京都工芸繊維大学)

パネリスト:青山 太郎(名古屋文理大学)、武田 宙也(京都大学)、津田 和俊(京都工芸繊維大学・山口情報芸術センター[YCAM])、中村 史子(愛知県美術館)

企画趣旨

現代アートの分野では、ここ数年来、「アート・コレクティヴ」や「アーティスト・コレクティヴ」という用語が定着しつつある。ここでいわれるコレクティヴとは一種の集団を意味するが、それは、伝統的な「流派」や「工房」、あるいは、近代的な「ユニット」のいずれとも異なる。コレクティヴとは、集団の構成やそれぞれの役割を固定せずに、流動的・可変的な仕方で緩やかに繋る集団でプロジェクトを営なもうとする、新しい創造スタイルだといえる。

もっとも、このような意味でのコレクティヴは、現代アートだけでなく、デザインやドキュメンタリー映像の制作実践のなかに、すでに潜在的に機能していたようにも思われる。そうだとすれば、コレクティヴというスタイルは、狭義の現代アートを超えてどのようなアクチュアリティを持ちうるのか―。コレクティヴをとおして、創造的な「個」はどのように再定義されうるのか―。創造の実践においてコレクティヴは有効であるとして、思想においてコレクティヴは可能なのか―。これらの問いに具体的に応答すべく、理論と実践の双方に目を向けながら、映像学、思想、デザイン、キュレーションという4つの立場からの提言を出発として議論を展開していきたい。

映像学からの提言

青山 太郎

一般に「映画は集団芸術」といわれるが、1910年代にはじまるプロデューサー・システムにみられるように映画制作は明確な役割分担がなされることが多い。また、少人数体制のドキュメンタリーであっても、撮る/撮られるという対立関係において、制作者が出演者を搾取するという可能性は多くの現場に潜在してきた。

本報告では、映像作家・小森はるかが取り組んできた東日本大震災をめぐる一連の作品の方法論に注目する。特に「小森はるか+瀬尾夏美」名義のユニットでの仕事において、被写体の人々を制作プロセスの内側に巻き込んでいく手法を検討し、そこに彼女たちの共犯的な主体性の生成変化があることを指摘する。それは、それぞれの参加者の同一性を中動態的に撹乱し、概念的主体をゆるやかに創出しているという意味において、制作者と出演者の単なる協力関係を超えた「コレクティヴ」であると考えられる。さらにいえば、その視座から、ジャン・ルーシュやペドロ・コスタといった作家たちの仕事をそれぞれに特異なコレクティヴな手法として再評価し、映像史の系譜の再検討を行うことが可能になるかもしれない。

思想からの提言

武田 宙也

本発表では、20世紀フランスにおいてコレクティヴをめぐる思想/コレクティヴな思想を練り上げた三人の思想家、ジャン・ウリ(1924〜2014)、フェリックス・ガタリ(1930〜1992)、フェルナン・ドゥリニィ(1913〜1996)を取り上げ、彼らの思想および実践に見られる「コレクティヴ」観について検討したい。精神科医のジャン・ウリは、1953年に開設したラ・ボルド病院において、哲学者・精神分析家のフェリックス・ガタリと「集合体(コレクティフ)」や「集合的主体化」をキーワードにした新しい精神医療を実践した。作家・教育家のフェルナン・ドゥリニィは、60年代後半から、フランス南部のセヴェンヌ山脈一帯を舞台として実験的に繰り広げられた自閉症児たちとのコミューン的な共同生活と、そこから着想を得た「地図」と呼ばれる実践によって広く知られた。発表では、相互に重なり合うところの多い三者の思想および実践を参照しつつ、「コレクティヴ」概念について思想的な側面から考えてみたい。

デザインからの提言

津田 和俊

デザインやアートの実践において、コンピュータやインターネットの普及を前提に、より身近になり手が届くようになってきた種々のテクノロジーを制作に採り入れ、プロトタイピングや芸術表現に応用する試みが進められている。その際のテクノロジーの採り入れ方は様々であるが、ある専門性や技術を持つ個人や組織と協働して、流動的に集団を形成・変形しながら、いわばコレクティヴとして制作する状況もしばしば見られる。このような実践をおこなっている例として「contact Gonzo」が挙げられる。2006年に垣尾優と塚原悠也により結成されたパフォーマンス集団「contact Gonzo」は、複数のメンバーの出入りの後、現在、塚原悠也、三ヶ尻敬悟、松見拓也、NAZEの4人のメンバーからなる。デジタルメディアを基盤とする美術家、協働スタジオを拠点とする建築家ユニット、アートセンターのバイオ・リサーチなどと協働しながら、パフォーマンス、インスタレーション、マガジンの発行など多岐にわたる活動を展開してきた。本報告では「contact Gonzo」の活動を例に、主にテクノロジーと協働の観点から、コレクティヴの実践について考察する。

キュレーションからの提言

中村 史子

近年、存在感を増す「アート・コレクティヴ」。この傾向は、2021年のターナー賞ファイナリストが全てアート・コレクティヴであったこと、2022年のドクメンタの芸術監督にアジアのアート・コレクティヴが初めて選出されたことで、決定づけられる。

かように注目される「アート・コレクティヴ」が、従来の集団表現と異なるとすれば、表現活動のためのインフラ整備や、コミュニティーの環境改善、情報の発信・記録など、作品・展示に集約しきれない活動を複合的に行なっている点だとひとまず言えよう。一方で、ゼロ次元やザ・プレイなど60年代より興隆した数々の前衛的な集団活動と同様、自らの置かれた社会状況と密接に関わりあい、従来型の美術家や作品形態の枠組みに抗い解体させる姿勢はしばしば共通して見てとれる。 本発表では、これら「アート・コレクティヴ」の活動を具体的に紹介すると共に、作家個人の存在が集合体の中で霧散し、所与のはずであった作り手=表現の責任主体という構図が崩れる点に注目する。そして、不特定多数が緩やかに集まる中、その表現の責任は一体どのように担保されうるのかについても考察する。