〈若手研究者フォーラム・分科会5〉 美学2

8月 31, 2022

10月16日(日) 10:50- 11:55
会場:東3号館101号室(K101)
司会:柿木 伸之(西南学院大学)

ドゥルーズにおける「友」の問題——ニーチェを補助線として

10:50-11:20 /塚田 優也(埼玉大学)

G・ドゥルーズとF・ガタリによる最後の共著『哲学とは何か』では、彼ら独自の友愛論が、哲学の根幹にかかわるものとして、全編に遍在するかたちで展開されている。その特異な点は、これが友という形式のもつ可能性を論じる友愛論ではなく、友という形式そのものを問い直す友愛論になっている点である。彼らがこのように友愛そのものを問う理由の大きな部分は、コミュニケーションへの疑義に関係がある。こうした論点は彼らの晩年に突然現れたものではなく、それ以前からそれぞれの問題圏にすでに潜在していたものであり、それが二人での協働を経ながら段々と表出してきたものであるように考えられる。

このことを検証するにあたって、本発表ではドゥルーズ単身に焦点を絞り、彼の経歴から 「(友との関係性に)葛藤してしまうドゥルーズ」という仮説を立ち上げる。「友」の問題が彼にとっていかほど、そしてどのように重要だったのかをみるために、彼の述語の変遷に注目しよう。「思考を強制するもの」という身分を与えられるのは、『差異と反復』では「不法侵入」「暴力」「敵」だが、『哲学とは何か』では「友愛」ないし「友」になっている。彼はかつて「敵」と呼んだものを、その不穏さを含み込んだまま「友」と呼びかえているのである。ここにドゥルーズの「友愛」に対する態度の変化を認められるだろう。

この問題を検討するにあたって重要な参照項は、F・ニーチェである。先にみたドゥルーズにおける転換には、ニーチェからの影響がある。本発表では以下のことを指摘したい。ドゥルーズは、ニーチェの取り組んだ哲学的諸問題を継承するというよりも、ニーチェの、自身が抱える葛藤への向き合い方あるいは姿勢を、強く継承している。そしてその姿勢とは、後年のドゥルーズの言を借りれば「情動や強度によって語ること」、すなわち自分自身の抱える葛藤を力能として肯定する、力への意志である。ここに本発表が提示する仮説「葛藤してしまうドゥルーズ」を導入すると、このドゥルーズのニーチェ的姿勢の継承と、先述した「敵/友」にかんするドゥルーズの変化とのあいだに、次のような説明をつけることができる。ニーチェから姿勢を継承したドゥルーズは、自身の力能の問題に取り掛かる方向に舵を切る。その先で、友についての葛藤を外的な問題(「不法侵入」あるいは「敵」)ではなく自身の問題(「友愛」あるいは「友」)として肯定し自身のうちに折り込むことで、ドゥルーズは「友」に「思考を強制するもの」の身分を与えるのである。

J-F・リオタールの『判断力批判』読解に関する一考察——「崇高の分析論」のZusammenfassungについて

11:25-11:55 /浅野 雄大(東京大学)

芸術を「崇高[sublime]」概念によって論じたフランスの哲学者J-F・リオタール(1924-1998)が『崇高の分析論講義』(Leçon sur l’Analytique du sublime, 1991)において展開する、カント『判断力批判』「崇高の分析論」§27における構想力の「背進[Regressus]」の時間論的解釈については、魅力的であるにもかかわらず、未だ研究が進んでいない。

カントは崇高概念の規定にあたって、構想力の二つの働きとして、把捉[Aufassung]と総括[Zusammenfassung]という概念を導入する。崇高感情は、総括が限界に達することで生ずるが、空間はまず把捉によって継起的に描かれ(「前進[Progressus]」)、そのようにして把捉されたものは「一つの瞬間のうちに[in einen Augenblick]」総括される(「背進」)。リオタールはここに、カント哲学における主体の基盤が崩壊する契機を見出す。というのも、彼はこの総括における「背進」が、統覚の総合を構成する「時間的総合」を不可能にすると主張するのである。この主張には、崇高なものの判断の認識判断からの時間論的断絶を強調することで、「崇高な芸術」の理論的根拠を打ち立てようとするリオタールの狙いがある。しかしこのような彼の解釈には検討の余地がある。というのも、多くのカント研究者は総括を『純粋理性批判』「第一版演繹論」における「再生の総合」と同一視し、むしろ認識判断と連続的に読解してきたからである(Paul Crowther,1989等)。

本発表では以上の論点における、リオタールのカント読解の妥当性を検討する。それを通して、カントのテキストにおいて「総括」が文脈によって「美的総括」と「論理的総括」の二つの意味で使われていることを指摘し、その区別を強調することによってリオタールの解釈をカントテキスト解釈研究のなかに位置付ける。このことによって、リオタールの読解の必然性を浮き彫りにすることができる。その必然性とは、彼の科学的認識や趣味のコンセンサスへの対抗意識や、ポストモダンにおける芸術としての「崇高な芸術」が要請される根拠に関わるものだ。

これまで、上記のリオタールにおける「背進」解釈は、彼の思想の内在的研究において副次的に扱われるのみであった(Peter W. Milne,2016,2019)。本発表の意義は二つある。まずカントのテキスト解釈の問題として当該テーマを扱うことで、カントの著作にはらむ一つの問題を、リオタールのカント読解を通して明るみに出すことができるという点である。そして、リオタールの解釈に読み取ることができるある傾向を、彼の思想に結びつけることで、彼の「崇高」概念形成の解明のための一つの道筋を示すという点である。