〈一般発表・分科会1〉 集団的創造性

8月 31, 2022

10月15日(土) 12:00-14:10
会場:東3号館101号室(K101)
司会:石田 圭子(神戸大学)

集団と個人の道徳的基準が定める美的経験の範囲

12:00-12:40 /Jean Lin(筑波大学)

本発表の目的は、鑑賞者の道徳的基準が美的経験の範囲を制限するという見解を、集団相対主義という独自の観点から提示することである。

第一節では、道徳的価値と美的価値の相関関係をめぐる主な三つの立場を概観したうえで、本発表が前提とする立場を明らかにする。芸術作品の道徳的価値は美的価値に影響しないとする自律主義に対して、道徳的価値は美的価値に影響しうると考える点は同じだが、どのような仕方で影響しうるかという点で見解が異なるのが道徳主義と不道徳主義である。基本的には、道徳主義は作品の道徳的な短所は美的な短所に、そして道徳的な長所は美的な長所になると捉える一方、不道徳主義は作品の道徳的な短所も時に美的な長所となりうると捉える点で異なっている。本発表は、道徳的価値は美的価値に影響しうるという立場を取るが、道徳主義や不道徳主義のように、道徳的価値と美的価値が何らかの仕方で直接的に連動するとは考えない。西村清和(2011)の見解を参照し、作品の道徳的な短所が、鑑賞者が鑑賞を続行できる〈許容範囲〉を超えた場合には、道徳的価値は鑑賞者に作品の美的判断を放棄させる形で鑑賞に影響すると主張する。また、作品の道徳的な短所が鑑賞者の許容範囲内であった場合には、それは作品の一性質として美的価値を達成する手段となる場合もあると指摘する。

では、作品の道徳的な短所に対する鑑賞者の許容範囲は、どのように決定づけられるのだろうか。この点に関して第二節では、鑑賞者が個人と集団の両方のレベルにおいて美や道徳の判断を行いうるということを示し、そのメカニズムを明らかにする過程で集団相対主義という本発表独自の理論を提示する。集団相対主義は、文化相対主義―文化的集団ごとに異なる物事の判断基準があるとする立場―と関連づけられるが、文化相対主義で指摘されている、集団ごとの多様性を尊重できる一方で、集団内部の多様性を捉え切れないという欠点を克服する。そのために、同じ集団に属する個人が必ずしも同じ判断をするわけではないこと、個人が複数の集団に属しうること、そして個人が時に複数の集団間を流動的に出入りしうることを示す。その際、個人基準と集団基準の概念を導入し、物事の判断基準は個人と集団両方のレベルにおいて存在しうるということを主張する。そして、個人基準と集団基準が互いを形成し合う中で道徳的基準が時代ごとに変化することに言及し、同時にそれが時代ごとの美的経験の範囲をも制限しているという見解を示す。

最後に、第三節では以上の考察を応用し、異なる道徳的基準が適用されうる作品―例えば、過去の作品や異文化の作品―の美的判断について考察する。  本発表の意義は、道徳的価値と美的価値の関連性という美学における既存の議題を、多元文化的な時代の問題意識と紐づけることで、新たな角度から議題にアプローチする点にある。

アマチュア文化からみる明治大正期の写真表現——「季題」「例会」「野外撮影会」に着目して

12:45-13:25 /調 文明(東京大学)

明治大正期の日本における表現活動を考察する上で、避けては通れない要素がある。それは日本各地に点在するアマチュアのネットワークとそれを可視化する出版文化である。短歌や俳句を例にとれば、明治期に入ると日本各地で句会や歌会が設けられたり、紙誌上で一般投稿者の作品が著名な俳人や歌人によって批評されたりなど、実際的にはアマチュアがその活動の中心となり支えている部分も大きい。それは写真においても例外ではない。明治大正期には日本各地に写真のコミュニティが形成され、例会等でメンバーの作品を互選品評し、写真雑誌や会誌に写真作品を投稿して著名な写真家の評や採点を仰ぐなど、短歌や俳句の状況と大いに似通ったところがある。しかも、その表現活動は単なる一個人の趣味で完結するのではなく、芸術写真運動へと直結するものであった。多数のアマチュアが「似通った」表現を継続することで、それがひとつの指標として定着し、さらなる追随が起こる。

そこで、本発表では明治大正期の日本各地に存在したアマチュア写真団体の多くが行っていた「季題」「例会」「野外撮影会」に注目し、近代俳句のアマチュア文化に見られる「題詠」「句会」「吟行」との同時代性や共通性を見ていくことで、これまであまり詳らかにされてこなかったアマチュア写真文化の活動実態を明らかにしていきたい。たとえば、日本人のみで構成された最初期のアマチュア写真団体「大日本写真品評会」は1896年に「年中行事春の部」と出品課題を設定したことをきっかけに、常会では毎度季節を表す課題が出されることになった。また、北越寫友會という団体では「遠足撮影會」「例会(互選品評)」「作画の課題」が会の規則によって定められている(『写真新報』第58号、1903年)。

飯沢耕太郎『「芸術写真」とその時代』(筑摩書房、1986年)や打林俊『絵画に焦がれた写真』(森話社、2015年)といった先行研究では、ある特定のアマチュア写真団体やアマチュア写真家、写真展覧会などを取り上げ、欧米の写真表現から様々に受容していった技法的、理論的、制度的影響が日本の芸術写真運動をどのように形成していったのかに主眼を置いてきた。そこでは、積極的に欧米の最先端の情報を取り込む主体的な写真家像(とくに都市部に住むハイ・アマチュア層)が前提されているが、日本各地に点在した中小のアマチュア写真団体がみな同等の志を持っていたかどうかはきわめて怪しい。むしろ、著名な写真家になることよりも同好の士と集まることが主目的ですらあったかもしれない。アマチュアの継続的な活動は本人の意思だけでは続かず、人を定期的に集める仕組みが必要であり、それが写真団体の行う「季題」「例会」「野外撮影会」なのである。無数のアマチュアが何に従って活動していたのかを考察することで、結果的に当時の芸術写真運動の一側面を明らかにすることができるのではないかと考えている。

フロッタージュにおける「痕跡」の意味変容と記憶の想起——岡部昌生による旧宇品駅プラットホームのフロッタージュを例に

13:30-14:10 /張 欣慧(北海道大学)

本発表の目的は、岡部昌生による被爆遺構のフロッタージュのイメージ分析を通じ、ヒロシマの記憶を語り継ぐ上で、物質的痕跡が果たす役割とそれによる想起の意味作用を明らかにすることにある。

岡部は80年代後半から、広島の被爆樹、被爆石、被爆遺構などの表面を紙に転写するというフロッタージュ技法を用い、ヒロシマの記憶を掘り起こしてきた。「痕跡」と「記憶」は彼の活動を貫く重要なテーマであるが、今までの論考ではあまり触れられてこなかった。本発表はこの点に着目し、フロッタージュの対象となる原爆の物質的痕跡と、フロッタージュにより紙に残された形態、すなわち物質的痕跡の痕跡を中心に、岡部の独自の「ヒロシマの記憶」の生成過程を検討する。

分析対象として取り上げるのは、岡部が9年間にわたり擦り続けてきた被爆遺構・旧国鉄宇品駅のプラットホームの縁石とそのフロッタージュである。宇品駅は戦時中、軍用鉄道・宇品線の終着駅として、兵隊と軍用物資を海外に輸送するという重要な役割を担った。また、原爆投下後、負傷者が宇品駅に運ばれ臨時救護所へ搬送されたため、そのプラットホームの縁石は「被爆石」と呼ばれるようになり、原爆被害の記憶が刻まれる場所の一つでもある。岡部は、宇品駅のプラットホームを原爆による「被害」と帝国日本による「加害」の境界線の象徴として扱いながら、その縁石を擦り取り、「ヒロシマの記憶とは何か」を問い続け、その記憶の内実を模索してきた。

同時に、岡部は意図的に縁石と縁石の「隙間」に紙をあててフロッタージュを行った。隙間には、ゴミや草花の種が埋まり、プラットホームが建設された時期から原爆投下を経て、現在まで綿々と流れる時間が溜まっている。フロッタージュ技法は直接接触可能な表面しか写せないため、隙間そのものを擦り取ることはできず、その輪郭線だけが提示される。だが、そうしてできた空間こそが、隙間という「不在」に形を与え、「不在」であるがゆえに、より強くその存在感を喚起させる。それと同時に、縁石から隙間へというまなざしの移動は、過去から現在までの時間の流動性を意識させる。岡部の「ヒロシマの記憶」は、存在(縁石及び隙間そのもの)と不在(フロッタージュで作り出した隙間の欠落)、「石に刻まれた膨大な火の記憶」と「隙間の闇に潜む閃光の記憶」の有機的な結びつきで生成するものとなる。こうした「ヒロシマの記憶」を現在まで積層されていく複数の時間の中で捉えることにより、観者は歴史的な出来事を現在の自分の経験や思いと重ね、自分との関係性のようなものを考える上で、その記憶を分かち合う。岡部は、縁石とそのフロッタージュとの間の同一性を主張しながら、隙間という表現不可能なものを提示し、新たな表象造形を導入することにより、物質的痕跡による想起の新たな読みを示唆する。本発表は、こうした岡部なりの痕跡の方法論を解明しながら、物質的痕跡による記憶想起と分有の新たな可能性を見出せるのではないかと期待している。