〈一般発表・分科会2〉美的経験と関心

8月 31, 2022

10月15日(土) 12:45-14:10
会場:東3号館201号室(K201)
司会:森 功次(大妻女子大学)

ディドロの「関心」概念と作品の物質性

12:45-13:25 /川野 惠子(神戸大学)

L. マリーは『俳優誕生(Inventer l’acteur)』(2019年)のなかで、18世紀演劇における「視覚的な要素(舞台装置、身振り等)」を「物質性(matérialité)」という術語に纏め、この演劇における「物質性」への注目が、ディドロに近代的な芸術観を着想させる一つの要因であることを明らかにする。本発表は以上の研究を受けて、ディドロの物質性への注目をさらに演劇以外の領域を含めて分析し、その近代的な芸術思想を特徴づける「関心(intérêt)」概念について新たな視点を提示することを目的とする。

啓蒙思想家であるディドロは、「近代人」という強い自意識をもって新しい時代の芸術とは何かという問題に取り組む。近代経験論哲学の成果を、古代以来の形而上学の伝統を形而的哲学に転換したこととみなしたディドロは、近代の芸術において「超自然」の描写は時代遅れであると考えた。このことが「ジャンル・セリュー」という新しい演劇ジャンルの創設に結びつく。ディドロによれば、喜劇が笑いを、悲劇は恐れを喚起するのとはことなり、それらの中間に位置するジャンル・セリューは、神ではなく、演劇を見る観客と「利害関係(intérêt)」を結ぶ身近な家庭の出来事を描くことで、観客の「関心」を喚起するジャンルである。このようにディドロにおいて「関心」概念は近代演劇の中心に位置づけられ、この概念の背景には近代における哲学の転回があることがわかる。

この「関心」概念と近代哲学の関係は、同時に作品の物質性という〈媒体(メディウム)〉の問題にも関わる。ディドロは最初期の芸術論『聾唖者書簡』(1751年)において、ウェルギリウスの詩の一節を例に挙げながら、その描写は心像では許容されるのに、なぜ絵画の視覚的像においては許容されないのかと述べ、像の物質性の違いと感覚が許容する範囲の問題を提起する。ディドロは『聾唖者書簡』以降も繰り返しこの問題に取り組み、とりわけ『サロン』という美術批評の実践のうちに、さまざまな作品を検討しながら、目の受け入れる範囲が、諸芸術の媒体の物質性に応じて異なることを指摘する。すなわち、詩は言葉、絵画はキャンバス、彫刻は大理石と、諸芸術は各々固有の媒体(メディウム)を持ち、その媒体の物質性が高まれば高まるほど、その表現を鑑賞する目の受け入れる範囲は狭まる。しかもこの作品の物質性は「近代人」にとってより差し迫った問題となる。なぜなら近代自然科学の発展は、近代人の目の許容範囲をより狭めたからであり、例えば、飛翔などの重力を無視する超自然の表現は、その範囲を逸脱する。したがって、近代の芸術家は芸術作品の物質性の処理において、物理的な合理性を保つことがより求められる。ただしディドロは一方で、芸術作品の物質性が完全に自然法則に還元されるわけではないことに着目しながら、それが自然法則とどれだけ巧みな距離を取るのかという点に近代の芸術家の技を見出そうとした。

本発表は以上の芸術作品の物質性の議論を検討し、作品の物質性を「自然/真実」と「詩情/天才」の間に巧みに置く芸術家の技術が、近代を生きる鑑賞者の「関心」を喚起する一つの要因であることを示し、この概念に新しい視座を提示する。

物語におけるストーリーとは何か——関心相対説の試み

13:30-14:10 /岡田 進之介(東京大学)

文芸理論家のJ. Cullerが述べるように、小説や映画、演劇などの「物語(narrative)」において、その提示された様態としての「ディスコース(discourse)」と、その内容である「ストーリー(story)」という二分法的枠組みは、物語分析の欠くことのできない前提とされてきた。しかしこのストーリー概念に関しては、物語ディスコースにおける何のどこからどこまでをストーリーと見なせば良いのかについて曖昧さが残されている(H. P. Abbott 2002)。近年の英米圏の美学(分析美学)においては、この問題に対して哲学的な観点から議論が交わされており、主な論者にはA. Smuts(2009)、高田敦史(2017)、W. D. Cray(2019)が挙げられる。

Smutsはストーリーとは何かという問題に対して主に二つの解決策の候補を挙げている。つまりストーリーを「作品において提示される出来事や登場人物、設定のディテールの完全な集合」とする同一説と、「様々な具体的な事例においてトークン化され得るタイプ」とするタイプ説である。しかしSmuts自身、前者は同じストーリーを異なる物語で語ることができなくなるという点、後者はそのタイプの本質的な要素をどう決定すれば良いのかが不明である点から、両者を却下する。そして同一説を手直ししたストーリー理論の可能性を示唆するが、それには「誤って記述された虚構的指示(misdescribed fictional reference)」のような困難な形而上学的プロジェクトが必要だと述べる。これに対して高田とCrayは両者とも存在論的なアプローチを採り、それぞれストーリーを「物語が話題にする出来事」と「アイデア」という具体者であるとする説を展開する。しかしそれらの主張は、特に虚構的な物語において私たちはどうやってある物語のストーリーがそれであると知るのか、という認識論的な問題を抱えており、それゆえに物語の創作・鑑賞実践におけるストーリーの同一性を十分に説明できていない。

本発表ではストーリーを関心相対的な物語内容とする説を提唱する。これはP. LamarqueがThe Opacity of Narrative(2014)において主張した、物語内容の関心相対性理論を応用したものである。つまりストーリーをその同一性を問う人の関心に相対的なものととらえることで、以上で述べた先行研究の問題を解決することができる。本発表の構成は以下の通りである。第1節では、Smutsが考えるように、同一説とタイプ説が問題を抱えていることを述べる。第2節では高田とCrayの存在論的アプローチの問題点を指摘する、第3節ではLamarqueの物語内容の関心相対性理論について確認した後に、それを微修正しつつストーリー概念に適用し、それが物語分析だけでなく日常におけるストーリー概念をも説明できることを示す。