〈若手研究者フォーラム・分科会8〉 演劇・映画

8月 31, 2022

10月16日(日) 10:50-12:30
会場:60周年記念ホール1階ホール
司会:碓井 みちこ(関東学院大学)

幾原邦彦『少女革命ウテナ』におけるバンクの役割——天井桟敷の影響を中心に

10:50-11:20 /髙橋 優季(関西学院大学)

幾原邦彦(1964-)は日本のアニメ監督である。彼は1997年に『少女革命ウテナ』(以下『ウテナ』)で初の監督・原作を務め、現在までに四つのアニメ作品を発表している。これらの作品には、幾原が学生時代に傾倒した寺山修司(1935-1983)の主宰する演劇実験室・天井桟敷の影響が強く現れている。しかし、この事実についてはこれまで先行研究で指摘されながらも、議論の中心に置かれることはなかった。そのため、これを俎上に載せることで、アニメーションにおける演出手法の展開に新たな視座を提供することができる。

本発表の焦点となるのは『ウテナ』のバンクである。バンクとは、魔法少女の変身シーンやロボットの合体シーンなどの主に連続テレビアニメで挿入される毎話繰り返し使用される映像を指す。その性質からバンクは子供向けアニメなどで多用される傾向にあるが、幾原作品においてはそのような一般的なバンクの使用方法とは異なった用いられ方が見られる。本発表の目的は、幾原のバンクを手掛かりに、彼の演出的特徴に見られる天井桟敷の影響、とりわけその呪術性との関係を明らかにすることである。

まず『ウテナ』におけるバンク、特に変身シーンに限定して分析し、それが「反復」という性質を持つことを明らかにする。次いで寺山修司の演劇論をふまえて、天井桟敷と『ウテナ』のバンクが持つ反復の役割とそれがもたらす呪術性について比較する。最後に、幾原がシリーズディレクターを務めた『美少女戦士セーラームーンS』(1994)(以下『セーラーS』)のバンクを比較対象とする。『セーラーS』のバンクの舞台は、背景が塗りつぶされた非現実的な無重力空間である。そこでは光線や粒子のエフェクトが効果音とともに拡散するなど、異空間の様相を呈する。一方、『ウテナ』のバンクでは背景が物語世界と一致する。主人公が生活する現実世界とバンクの舞台が同一であるのだ。つまり、『ウテナ』のバンクは作中の現実と地続きである点で『セーラーS』と大きく異なっている。この点に注目し、寺山の言う「現実原則」を参照して『ウテナ』のバンクが天井桟敷の演劇といかに結びつくのかを論じる。

『ウテナ』のバンクは「反復」の性質を持つため、呪術性を帯びている。また、寺山の考える呪術とは、虚構や反復を孕んでいる現実世界の事象であり、そのことを寺山は「現実原則内の出来事」と呼んでいる。つまり、呪術性を持ち現実と地続きである『ウテナ』 のバンクもまた「現実原則内の出来事」であるといえる。この視点は、幾原演出における独自性を指摘するだけでなく、しばしば難解と言われる幾原の物語構造の解明に寄与するものと考える。

まなざしで触れる『ピアノ・レッスン』——触感的視覚性を手がかりに

11:25-11:55 /森川 結真(関西学院大学)

ローラ・U・マークスは「触感的視覚性(haptic visuality)」の概念を提唱した。この概念において映画はぼかしやクロースアップ、テクスチャーの強調といった表現形式がもたらす触感的イメージの提示によって、視聴覚以外の感覚をも巻き込んで観客の身体記憶を呼び起こし、観客がスクリーン上のイメージとの関係を主体的に構築することを可能にする。このとき観客のまなざしは皮膚のような感覚器官として機能し、触感性に直接関係する。

『ピアノ・レッスン』(1993)はこうした触感的視覚性を強調する映画作品の一つとして挙げられる。先行研究では本作品について、現象学的な観点からその触感的特性についての分析を行っているものの、物語や画面構成、カメラの動きといった作家の意図を含む表現や映画文法との関連において論じられることはなかった。そこで本発表では、映画の物質的側面と物語の内容的側面との関連に着目し、『ピアノ・レッスン』における触感的視覚性が観客に与える効果について再考する。

まず先行研究を追いながら触感的視覚性の概念について、従来の視覚中心で窃視症的な観客モデルの構築とは異なるアプローチによって、伝統的な映画鑑賞のコードから逃れて観客が映画を主体的かつ身体感覚的に知覚するための方法であることを確認する。

つづいて『ピアノ・レッスン』における「切断」と「落下」をキーワードとする二つのシーンの映像分析に着手する。話すことによって自分の感情を表現することのないヒロイン・エイダの言葉は、彼女が奏でるピアノの音色や手話、表情や態度といった身体的動作によって理解される。しかし夫のスチュアートを裏切り、はじめは嫌っていた粗野な男ベインズを激しく愛するようになるエイダの心境の変化を観客が抵抗なく受け入れるには、これらのみではいささか困難が生じる。そこで触感的視覚性の概念を援用し、登場人物の心情や物語への観客の自己同一化の過程を論じる。エイダの指が斧で切断されるシーンでは、観客は泥や血で汚れた手や、力任せに振り下ろされる斧のイメージを獲得することで彼女の心理的・身体的な痛みをアフェクト的に感じ取る。また、エイダがピアノとともに海に落下するシーンでは、スローモーションとクロースアップによって生々しく捉えられた海水や気泡がもたらす触感的イメージによって、観客はエイダの苦しみを身体感覚的に理解する。

以上の映像分析を通して、結論では『ピアノ・レッスン』において観客は登場人物を物語によって心理的に理解するだけでなく、それと折り重なるようにして強調される触感的視覚性の効果によって登場人物の身体感覚に接近し、多感覚的に映画を経験するということを主張する。

『グレイヴ・エンカウンターズ』二部作の遅い恐怖

12:00-12:30 /八坂 隆広(神戸大学)

本発表は、ファウンド・フッテージホラー映画とメタ・ホラー映画がもつ「遅い恐怖」の形式を明らかにするものである。

発表者は、ホラー映画を見ることにはなぜ快が伴うかという問いについて研究を進めている。その方法として、ホラー映画のジャンル的な特性、すなわち作品の作り手も観客も、それが「ホラー映画である」と分かった上で作品を制作したり鑑賞したりしているということに着目し、そうした構造を内在させているメタ・ホラー映画作品が独自に与える恐怖と快の解明に取り組んでいる。そのための足がかりとして、本発表では、特定のメタ・ホラー映画が、まさにそのメタ的構造によって観客の恐怖を喚起する形式を、『グレイヴ・エンカウンターズ』(Grave Encounters、2011、以下「GE」)と『グレイヴ・エンカウンターズ2』(Grave Encounters、2012、以下「GE2」)の分析を通して明らかにする。

「GE」は同名テレビ番組の撮影クルーが遺した映像素材を編集したものである、という体裁を用いたファウンド・フッテージホラー映画である。番組のホストであるランス・プレストン率いる撮影隊がロケ地の廃病院で味わう恐怖体験が、クルーの手持ちカメラや各所に設置された定点カメラを通して描かれる。

「GE2」では、「GE」は既に公開された映画作品として扱われる。主人公のアレックスは、「GE」がフィクションではなく、実際に起こった事件の映像なのではないかと疑うようになる。そしてその真相を探るうちに、「GE」のロケ地であった廃病院に辿り着き、「GE」の登場人物達が味わった恐怖を追体験することになる。

この二部作が用いるファウンド・フッテージという形式は、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(The Blair Witch Project,1999)の興行的成功以降、盛んに用いられるようになったものである。手ブレや構図への配慮のない映像が特徴的であり、こうした映像の質や、登場人物がカメラを持っているという前提ゆえに、観客にカメラの存在を強く意識させる。すなわち、ファウンド・フッテージホラーにはメタ的な構造が既に備わっているのである。まずはこれに注目し、「GE」を用いてファウンド・フッテージホラーの恐怖の構造を分析する。

続いて扱う「GE2」は「GE」をフィクション作品として扱い、その続編として自らを位置づけることで、それじたいがホラー映画であることの自覚を示している。もともとメタ的構造をもつファウンド・フッテージの形式に別のメタ的構造が付与されている点に注目し、この二重化されたメタ構造が喚起する恐怖の構造を分析する。

最後に、分析してきたふたつの恐怖が、驚愕効果(startle effect)に付随するもののような、瞬発的なものではなく、高度な認知能力を必要とする、「遅い」ものであることに着目する。そしてこの「遅さ」への注目が従来とは異なる仕方で「ホラー映画の快楽論」を考えることを可能にするものであることを示す。