10月16日(日) 9:00-10:40
会場:東3号館201号室(K201)
司会:喜多村 明里(兵庫教育大学)
サセッタ作《ボルゴ・サン・セポルクロ多翼祭壇画》裏面の図像解釈の試み
9:00-9:30 /園田 葉月(同志社大学)
本発表は、15 世紀シエナ派の画家サセッタ(Stefano di Giovanni, il Sassetta, ca. 1400-ca. 1450)による《ボルゴ・サン・セポルクロ多翼祭壇画》Polittico di Borgo San Sepolcro(1437-1444年)を取り上げ、裏面の図像解釈を目的とする。
この祭壇画は、フランチェスコ会の依頼によりボルゴ・サン・セポルクロのサン・フランチェスコ修道院聖堂主祭壇画として描かれ、表面が聖母子と諸聖人を主題とする26点、裏面が聖フランチェスコ伝および諸聖人を主題とする30点のパネルで構成されていた。しかし本作は、1578-1583年頃に設置場所から取り外され、聖具室に保管された後に解体され散逸した。そのうち約半数のパネルが、世界各国に現存する。本祭壇画裏面は、聖堂の建築構造の地域的特性で閉ざされた内陣の聖歌隊席に座した修道士のみが仰ぎ見るという特殊な条件であるために、1939年-1998年の間にJ.ポープ・ヘネシーをはじめとする9名の研究者がパネル再構築とそれに基づく図像解釈を発表してきた。しかし、2007年に本祭壇画のX線調査や木目および釘穴の照合などの科学的調査が解明したプレデッラおよび頂部を含めたパネル再構成は、先行研究を悉く覆すものであった。しかし、各パネルの再構築によって導かれる整合的な図像解釈は、背景の建造物や風景の同定を含めいまだ充分とは言えない。
そこで発表者は、まず、先行研究が看過してきた本作以前の聖フランチェスコ図像における逸話の採用頻度と本作の逸話選択の比較検討を行った。その結果、本作の聖フランチェスコ伝に採用された逸話は、聖人足下の三寓意像(虚栄、自尊心、貪欲)と関連することが確認された。また、従来は採用されることが極めて希であった《聖フランチェスコの清貧との結婚》が、最も採用頻度の高い《聖痕》と対をなし、中央パネルにおいてマンドルラに包まれ、磔刑の姿勢を取る「第二のキリスト」としての聖フランチェスコの両脇に配されていることが明らかとなった。そこから発表者は、両パネルが裏面全体の図像的中核となると考察した。そして《聖痕》における聖人の視線と《結婚》の中空に浮かぶ従順、清貧、貞潔の頭部が頂部への向きを示していること、頂部の《受胎告知》の天使が下方に向ける眼差しが、中央パネルの聖人頭上に位置し、同じ赤い衣の従順を通じ聖人と上下相互的に緊密な連関を構成していることを確認した。以上の手順から《聖痕》および《結婚》の配置そのものが、科学的調査が導いたプレデッラの福者ラニエリから中央パネルの聖フランチェスコを通じて頂部の《受胎告知》へと至る視線の上昇が、フランチェスコ会修道士にとっての模範、つまり「第二のキリスト」を目指すべしという裏面全体の教育的役割の根幹をなしているという考察結果を導いた。
フラ・アンジェリコ作サン・マルコ修道院僧房《受胎告知》における「受肉」と「光」の問題——形象不可能性をめぐって
9:35-10:05 /杉山 太郎(京都大学)
『ルカによる福音書』の中で、大天使ガブリエルがマリアに処女懐胎を伝える「受胎告知」の場面には、神の受肉という、キリスト教史における根幹的な教義を読み取ることが出来るのだが、神がいかにして人の姿を得て地上に現れたのかについては、具体的な記述が残されていない。「受肉」は、形象不可能性の領域に属しているのである。それでは、芸術家は、「受胎告知」主題の造形化に際して、「受肉」の問題とどのように向き合ったのか。本発表では、15世紀フィレンツェの画家であるフラ・アンジェリコがサン・マルコ修道院の僧房に描いた≪受胎告知≫を、「形象不可能なもの」とイメージのかかわりを深く示唆する作品として提示したい。
サン・マルコ修道院には、修道士が瞑想や神学研究を行いながら生活するための僧房が設置され、ドメニコ会修道士でもあったフラ・アンジェリコが、様々なフレスコ装飾を壁面に施した。その一つが、≪受胎告知≫である。今作は、フラ・アンジェリコによる「受胎告知」作例の中でも、モチーフはほとんど排除され、非常に簡素で瞑想的な要素が強い。ガブリエルとマリアの間の空間には、白の顔料が用いられたフレスコの表面 ――それは「光」である――が輝いている。フランスの哲学者・美術史家のジョルジュ・ディディ=ユベルマンは、この「白」に着目した(Georges Didi-Huberman,1990)。従来、美術史はこの「白」を大々的に取り上げて論ずることはなく、サン・マルコ修道院の装飾に関する重要な研究においても、白い光は自然主義的なものとして片付けられている(W.Hood,1993)。ユベルマンは、今作の「白」を、「現前化」であり「表象を切り開く」と述べる。すなわち、白い光は、感覚的に受け流される残像ではなく、理性的対象として認識される。ユベルマンは、今作をイコノグラフィー・イコノロジー論によって解釈する限界を示したのである。
白い不定形の光は、具象的な光線ではなく、近現代美術的な意味での抽象でもない。ここで、具象/抽象という対立を超えて、「色彩としての光」が何を内包し得るのかを検討しなければならないだろう。第一に、フラ・アンジェリコは、ドメニコ会の神学者トマス・アクィナスの思想を十分に吸収していたに違いないため、トマスの受肉論を紐解くことで、「受肉」表象の不可能性と多義性を確認する。また、キリスト教世界における光の扱われ方を、新プラトン主義思想にも触れながら、「受肉」とのかかわりの中で整理する。以上のように、ユベルマンの説を受けつつ、本発表は、今作の「不定形で曖昧な光」の表象の美術史上の意義と、形象不可能な概念へのイメージの挑戦のあり方を提案するものである。
ロレンツォ・レオンブルーノ《アペレスの誹謗》——「運命」の図像から見る
10:10-10:40 /田村 万里子 (慶應義塾大学)
古代から現代に至るまで「運命の女神」は各時代の宗教観や歴史的背景と結びつき、それぞれの精神風土のもと多様に姿を変えてきた。古代においては世界を司る女神「テュケ」として崇められ、中世においてはボエティウスの『哲学の慰め』のなかで車輪を回す異教の女神として非難された。ルネサンスの時代、ダンテは『神曲』で神の支配する天使として位置付け、マキアヴェッリは『君主論』で人間の意思によって打ちのめすべき女として描く。17世紀頃になると貿易商人たちの海を舞台として、近代的な思想のもとにまた姿を変えていく。本発表では「運命の女神」の図像的変遷を文学/視覚芸術において確認し、16世紀のマントヴァで宮廷画家として活動したロレンツォ・レオンブルーノ(Lorenzo Leonbruno, 1477-1537)の作品に焦点を当てたい。
ルネサンスを代表するパトロン、イザベッラ・デステはアンドレア・マンテーニャの古典的芸術趣味を愛した。マントヴァに生まれたレオンブルーノはそうした古典的な趣味をよく理解し実践することに長けた画家であり、安定した構図と精巧な細部表現を得意とした。マンテーニャの用いた図像を翻案し(宗教主題から世俗的な主題まで)異なるジャンルの作品を手がけ、イザベッラから手厚い庇護を受けたことは余り知られていない。むしろ伝統的な図像や構図に囚われた独創性の乏しい画家として、時代から取り残された存在として語られることが多かった。
発表者が研究対象とするのは《アペレスの誹謗(あるいは運命の寓意)》(ブレラ美術館)という作品である。古典的な主題としてルネサンスの時代に人気を博した「アペレスの誹謗」はボッティチェッリやデューラー、マンテーニャも手がけた題材である。レオンブルーノの作品において興味深い点は、「運命の女神」という異なる主題と結びつけることで全く新しい作品を作り出した点にある。ジュリオ・ロマーノがマントヴァに招聘され、宮廷を退くことになるレオンブルーノは書簡に自身の運命への悲痛な想いを綴っている。それらの言葉を頼りに先行研究では本作を、不運をかこつ画家の心情を代弁するものとして解釈してきた。
しかし発表者は本作について、「運命の女神」に支配される人生を嘆く受動的な作品というよりも、自らの意思によって運命に抗うべく制作された作品として解釈できるのではないかと考える。ジュリオ・ロマーノのマニエラ・モデルナに対抗するかのように選択された古典的な主題・図像・技法(グリザイユ)には、レオンブルーノの芸術観が強く表明されている。宮廷から退く時期に描かれた作品として、そこには自らの運命に自らの技量によって抗おうとする意志が感じられるのではないか。「運命の女神」の図像を手がかりに、レオンブルーノの描いた《アペレスの誹謗》のもつ特異性や独創性について考察したい。