〈若手研究者フォーラム・分科会3〉 現代美術1

8月 31, 2022

10月16日(日) 9:00-10:40
会場:東3号館301号室(K301)
司会:平野 千枝子(山梨大学)

壁画《自由》(1951)にみる猪熊弦一郎のモダニズム——芸術の社会性と造形の模索

9:00-9:30 /内山 尚子(広島大学)

1951年、画家でデザイナーの猪熊弦一郎(1902-1993)は、日本国有鉄道(当時)の上野駅中央改札上部に壁画《自由》を完成させた。駅舎の三角屋根に沿った横長の五角形の画面には、上野駅発の列車が向かう東北地方の風物(スキー、林檎狩り、温泉、狩猟等)が描かれている。展覧会カタログではタブローを超えた猪熊の実践例として頻繁に紹介されるが、2002-03年の修復の際の報告を除けば本作に関する研究は少なく、作品の図像や特徴に関する踏み込んだ分析はあまり行われていない。本発表はこの点を補い、猪熊の戦前戦後を跨いだモダニズムの特徴を考察するものである。

本作の主要なモティーフとその表現様式は、第二次世界大戦前から続く猪熊の前衛芸術に対する関心の中に位置付けることができる。猪熊は本作にもある横たわる裸婦や魚を持つ女性を1930年代から繰り返し描いており、本作における幾人かの女性や馬に乗る人物のイメージには、戦前の滞仏期に直接教えを受け、1951年には上野の国立博物館(現東京国立博物館)で展覧会も開催されたアンリ・マティス、そしてパブロ・ピカソやポール・ゴーギャンの作品との類似性を見てとることができる。上記の通り、猪熊の壁画においてこうした人物像は東北の風物の中に配され、それは上野駅という設置場所を念頭に置いたものであった。本発表ではこれに加え、人物像のほとんどが休息や余暇と結びつく形で表されている点に注目することにより、ヨーロッパのモダニズムの画家たちが着想源を「非西欧」という地理的文化的「他者」に求めたことと同様に、この壁画のユートピア的主題は猪熊が「東北」に向けた眼差しの産物と見ることも可能であると指摘する。

こうしたヨーロッパの前衛芸術に対する猪熊の関心は、本作において他者との協働や作品の公共性といった特徴と結びつく。所属していた新制作派協会が当時建築部門を設立し芸術家と建築家の共同作業を試みていたこと、そして戦争で荒廃した社会を慰め励ます目的があったことが指摘されるが、「生活造形美」という彼自身の言葉が示すように、猪熊は芸術が人々の生活と結びつく必要性にとりわけ意識的であった。こうした考えは、1950年に来日した日系米人芸術家のイサム・ノグチが非西欧非近代の文化に求めた芸術像と親和性を持つほか、1955年に移住したニューヨークで世界大恐慌期の連邦美術計画に参加した世代の芸術家たちと交友を結び、「純粋芸術」の枠を超えて活動を展開していった猪熊のその後の実践を考える上でも看過できない。つまり本作は、ヨーロッパに学び、戦後新たな芸術の中心地となったアメリカ合衆国にも活動の場を求めた猪熊の、造形面にとどまらないモダニストとしての活動の結節点に位置づけることができるのである。

1950年代後半期における河原温の実践とその展開について

9:35-10:05 /小倉 達郎(多摩美術大学)

渡米後の1966年に制作が開始された《Today》をはじめとする諸シリーズによって国際的に評価される河原温(1932-2014)については、すでに多くの論が立てられてきた。しかし、河原が日本で活動した1950年代の実践に関する従来の研究はきわめて限定的なものであり、特にその後半期における展開に対して十分な検討がなされてきたとはいいがたい。本発表は、残された作品および資料の分析を通して同時期における河原の活動を概観し、既存の作家論に対する新たな視座の提示を試みるものである。

1950年代における河原の画業については、現存する作品群とともに、後年に刊行された作品集『ON KAWARA 1952-56 TOKYO』からその大筋を知ることができる。ただし、タイトルが示す通りこの作品集に収められたのは1956年までに制作された作品のみであり、また、以降1959年の離日までの期間に制作された絵画作品に関しては、それらが残存するか否かを含め十分な記録が残されていない。そこで、本発表においては、当時河原が携わっていた舞台作品に関わる活動、および「印刷絵画」と題された一連の取り組みを、同時期における実践とその展開について検討するための手がかりとして取り上げることとする。管見の限りいずれもこれまで満足に論究されていないが、それぞれに比較的多くの関連資料が残されているため、まずはその分析によって河原の足跡を辿りはじめたい。

河原は当時、自身も絵画部のメンバーとして参加する研究会「制作者懇談会」から派生的に旗揚げされた劇団「集団劇場」や「人間座」による舞台作品に携わり、複数の公演において舞台装置の制作を担当するなどきわめて精力的に活動していた。ここでは、その成果がいかに絵画作品の制作へ還元されていたのかという点に着目しながら、当時の活動について考察する。他方、「印刷絵画」については、1958年から1959年にかけて4点の作品が制作されているほか、前後の比較的長期間にわたって同様の取り組みが継続的に行われていたことを確認できる。そのことから、本発表では「印刷絵画」が河原にとって重要な主題をもつものであったと捉えなおし、あらためて詳細な検討を行う。  

本発表で取り上げる1950年代の後半期は、河原にとって暗中模索の時期であったとみなすことができるであろう。当時の美術雑誌などに掲載された河原自身による執筆記事を通覧すると、社会的状況を踏まえ絵画そのものについて変革の必要を訴えながら、旧来的な有り様とは異なる新たな様相の絵画を自ら追求すべく様々なかたちで続けられていた試行錯誤を窺い知ることができるからである。それら種々の実践およびその展開について明らかにすることは、その後日本を離れ国際的な存在へと変貌する河原温という作家に対して、さらなる研究の発展へとつながる端緒を開くこととなるであろう。

李禹煥の絵画における「外」への意識——初期作品と1970年代の連作《点より》《線より》

10:10-10:40 /李 惠實 (関西学院大学)

李禹煥(Lee Ufan, 1936-)は、日本を拠点の一つとして精力的な芸術活動を続けることで現在も世界的に高く評価されている韓国出身のアーティストである。1956年に来日した当時の李は主に絵画に取り組んでいた。しかし、「もの派」の中心的な理論家として注目されるようになった1969年以降、活動の中心は立体作品に移行する。その後、1973年からの連作《点より》と《線より》によって絵画の制作が再開された。

この「点」と「線」の連作について金美卿(1995)は、書道における筆の使い方を反映したような方向性の表現に注目して、そこに含まれる時間的・空間的な進行性を指摘する。また、ベルスヴォルト=ヴァルラーベ(2016)も、このシリーズを特徴づけるのは持続性であり、理解可能な時空の連続が絵画空間を開示すると述べている。ただし、金もベルスヴォルト=ヴァルラーベも主に念頭に置いているのは、1970年代の絵画制作である。この両者を含めて多くの先行研究では、それらと初期作品との関係について必ずしも明確な指摘がなされてきたわけではない。李の絵画において空間性とその時間的な広がりは、もの派以後の作品に限られるのだろうか。

この疑問を解決するために本発表では、まず李の絵画観を検討する。李によれば、自分の絵画の空白部分は隣の白い壁と刺激しあい、さらに遠くへの飛躍を促す。こうした作品は、内と外の相互性と呼応性を持つような、開かれた構成によって成り立っているとされる。このような彼の絵画観は、たとえば、1973年以降の連作《点より》と《線より》に表れている。ここでは、連続的に描かれている点や線が、しだいに薄くなっていく顔料によってカンヴァスの外へと続く印象を与えている。初期作品に同様の表現を見出すことは困難ではない。たとえば1967年の《塗りより》では、キャンバスの内に額縁のような枠がもう一つ作られ、内部に塗られた白い絵具が、いくつかの箇所で左右にはみ出し、下方ではその枠の上を乗り越え、垂れて流れようとする。絵具やキャンバスの物質性を強く感じさせる作品ではあるが、すでにそこには、「外」へとつながろうとするリンクの意識や、感知される運動感を絵画として伝えようとする時間性の表現が認められる。

他の作品の画面からも示唆されるように、1970年代に再開された李の絵画作品における、カンヴァス外の空間への意識は、もの派での理論活動以前に試みられた絵画作品のなかですでに芽生えていたと考えられる。この空間意識は、1960年代後半の日本における芸術動向の1つである「トリック的表現」とも連動しながら、李禹煥の絵画制作における独自の特性として、その後の彼の代表作ともいえる《点より》と《線より》に確かに受け継がれている。