10月16日(日) 13:30-15:40
会場:東3号館201号室(K201)
司会:赤塚 健太郎(成城大学)
飽和する響きと「音楽」の変容——18世紀末の汎神論思想とのかかわりから
13:30-14:10 /岡野 宏
本発表では、18世紀末から19世紀初頭における「音楽」観の変容を、同時代の「音響」をめぐる思考を検討することで抽出する。なお、ここでの「変容」は必ずしも不可逆的なパラダイム・チェンジを指すのではなく、従来とは異なる思考の出現という事態を意味している。それは大まかには伝統的な数秘的音楽観からの脱却として捉えられるが、しかし単純に「感覚されるもの」として音楽が規定されることを意味するわけではない。本発表ではこれを「数比的正しさ」「物理的正しさ」「感覚的正しさ」の三項の関係として理解し、「数比的正しさ」からの脱却を前提としつつ、「物理的正しさ」と「感覚的正しさ」の間に存在する差異に、新たな音楽観の様態を看取する。
第1節および第2節では前提となる歴史的状況を提示する。西欧においては、倍音に関する実証的な研究は17世紀に開始する。第1節では先行研究を参照しつつ、当初は協和音にのみ制限されていた倍音がD・ベルヌーイやオイラーらによって不協和音へと拡張されてゆくこと、それゆえ調和的な響きをもたらすと同時に、それに反する要素をも与えるという両義性が付与されることを見る。
第2節では音楽に倍音理論を適用することで生じる齟齬を、おもにラモーの和声理論を題材に検討する。ラモーは最初の著作『和声論』(1722年)で採用していた伝統的な数比的枠組みを放棄し、以後の著作においては倍音現象のなかに理論的基礎づけを模索するようになる(Christensen 1993;伊藤 2020)。その際、問題になったのが第7倍音の扱いである。すなわち同倍音に近似する短7度音程が長三和音に含まれないことはその理論にとって瑕疵となりうるものであったが、ラモーは知覚可能性という論点を設定することでこれを回避する。ここに「物理的正しさ」に対する「感覚的正しさ」の擁護という契機が見いだされる。しかし、これは同時に伝統的な「数比的正しさ」を裏書きするという機能も有していた。
こうした前提のもとに、第3節において音響における「物理的正しさ」と「感覚的正しさ」の差異にこそ、「音楽的なもの」の本質が見いだされる事態をヘルダー『カリゴーネ』(1800年)などのテクストに見出す。そこでは伝統的な協和音ではなく、むしろ不協和音を含む響きにこそ調和が見いだされているが、発表者はここに伝統的な数秘的音楽観における「超越」への志向とは異なる、知覚世界において知覚可能性を超えた拡がりが存在するという「超過」への志向を看取する。こうした「超過」は「感覚的正しさ」だけでも「物理的正しさ」だけでもなく、両者の落差において出現するものである。結論では、こうした「超過」への志向を、世界そのものを無限とみなす同時代の汎神論的世界観と結びつけることを試みる。
フランスの田園趣味におけるヴィエル奏者像——サヴォワイヤールと女性ヴィエル奏者フランソワ・シュマンの影響
14:15-14:55 /木村 遥(大阪大学)
ヴィエル・ア・ルウvielle à roue(以下、「ヴィエル」)は、中世以来ヨーロッパで聖俗・貧富のさまざまな階層の人びとに演奏されてきた弦楽器である。18世紀のフランスでは、サヴォワ地方から出稼ぎに訪れる「サヴォワイヤールsavoyards」と呼ばれる人びとがヴィエルを携えていたことから、当該楽器は田園的な性格を持つと見做された(e. g. Palmer 1980)。そして、こうした楽器の性格は当時のフランスで流行した田園趣味と結びつき、その結果、当該楽器は上流階層にも演奏される側面を持つに至った。本発表は、ヴィエルが田園的性格を持つと見做された背景にある、サヴォワイヤールの実態について検証するものである。
ヴィエル奏者としてのサヴォワイヤールは、種々の芸術作品にしばしば登場する。例として、ドニゼッティのオペラ《シャモニーのリンダ》(1848)のピエロット、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』(1862)のプチ・ジェルヴェが挙げられる。これらをはじめとする、18–19世紀に成立した約20もの芸術作品に登場するヴィエル奏者のモデルは、女性ヴィエル奏者フランソワ・シュマンFrançois Chemin(c. 1737–?、通称「ファンションFanchon」)である可能性が指摘されてきた(Green 2016)。しかし、サヴォワ地方出身の両親のもとパリで生を受けた彼女が、いかなるナショナリティおよび帰属意識を有したのか、彼女のヴィエル奏者としての活動実態は、これまで十分に検討されてこなかった。
そこで本発表では、ファンションの活動によって形成されたとされる18世紀から19世紀のフランスにおけるヴィエル奏者像を明確にしていく。まず、《シャモニーのリンダ》および『レ・ミゼラブル』をはじめとする種々の芸術作品において、ヴィエル奏者としてのサヴォワイヤールがいかに描かれているのかを提示する。次に、サヴォワ地方の歴史や慣習について整理する。サヴォワ地方は農業が盛んな地域であったが、収穫量が減少する冬季になると、子ども達をパリへ出稼ぎに送り出す慣習があった(Palmer 1980)。こうした18世紀のサヴォワ地方の状況について、18世紀に刊行された『パリの表象』(1782–88)や、『フランスの完璧な旅程』(1788)をはじめとする資料の調査に基づいて整理する。そして、ファンションの活動を描いたヴォードヴィル《ヴィエル奏者ファンション》(1803)の台本の精読を通して、彼女がヴィエル奏者としていかに描写されているのか、その内容を明らかにする。以上の考察を総合して、当時のサヴォワイヤールの表象を明示し、上流階層のあいだで興った田園趣味を詳らかにする。
形式主義音楽美学と時間論の架橋——ジゼル・ブルレの音楽美学におけるヘーゲル美学の影響
15:00-15:40 /舩木 理悠(同志社大学)
フランスの音楽美学者であるジゼル・ブルレ(Gisèle Brelet, 1915-1973)は音楽と時間の関係についての思索で知られており、その主著『音楽的時間』(Le temps musical: essai d’une esthétique nouvelle de la musique, P.U.F., 1949)は、この領域における主要な著作として評価されている。そこでブルレは音楽的時間を、単なる純粋な持続にとどまるのではなく、独自の秩序を持った時間であると主張しており、ブルレに関する先行研究も必然的にこの音楽的時間論の内在的解明に集中している。
一方で、ブルレ美学を音楽美学史や一般美学史の中でどの様に位置づけるべきかという問題が大きく取り上げられることは少なく、現在においても十分に議論が深められているとは言い難い。例えば、エンリコ・フビーニによれば、ブルレ美学は形式主義美学とフランス・スピリチュアリスムという二つの源泉を持っているとされるが(cf. Fubini [trad. par Danièle Piston] Les philosophes et la musique, Paris, H. Champion, 1983, p. 195.)、このことは未だ十分に深められていない。フビーニの理解をより具体的に解釈すると、ブルレの音楽的時間論はハンスリックの形式主義音楽美学をベルクソン的な時間論によって乗り越えようとしたものということになるが(cf. 舩木理悠「G・ブルレの音楽美学史的位置づけ:E・ハンスリックとの関係を通じて」『美学』247号、2015年、pp. 97-107)、この両者を結び付ける論理については、未だに徹底した考察が行われていないのである。
そこで、本発表ではブルレの著作に散見されるヘーゲルへの言及に注目する。ブルレは『音楽的時間』等の著作でヘーゲルに言及しているほか、「ヘーゲルと近代音楽」(« Hegel et la musique moderne », Hegel-Jahrbuch, 1965, S. 10-26.)という小論も残しており、ヘーゲル美学から一定の影響を受けていることは明らかである。特に、ヘーゲルの音楽論における「音」や「時間」に関わる議論にブルレは注目しており、ここに、ブルレ美学の二つの源泉であるハンスリック的形式主義とベルクソン的時間論を架橋する鍵があると推測できる。
従って、本発表はまずもって『音楽的時間』と「ヘーゲルと近代音楽」の記述を中心とした分析を行うことで、ブルレのヘーゲル理解を確認する。ここでは、ブルレがヘーゲル美学における「音」に関する議論に注目し、そこに形式主義的音楽美学との親近性を読み取っている点、そして、ブルレがヘーゲル美学において時間が音楽の中で果たすとされる役割に注目し、そこに主観性と表出性を読み取っている点が明らかとなるだろう。
続いて、上記のブルレのヘーゲル理解を基に、ブルレにおける形式主義と時間論の総合を再検討し、ヘーゲル美学が両者を架橋する役割を果たしているという解釈を示す。
これにより、本発表はブルレ美学におけるヘーゲル美学の影響を明らかにし、音楽美学に限定されないより広い美学史的文脈でブルレ美学を捉えることを試みる。