〈若手研究者フォーラム・分科会1〉 美学1

8月 23, 2022

10月16日(日) 9:35-10:40
会場:東3号館101号室(K101)
司会:加藤 隆文(大阪成蹊大学)

現象に救いを——芸術の簡素な選言的定義

9:35-10:05 /葉 涵天(東京大学)

本発表は20世紀半ばから盛んに議論されてきた「芸術の定義」というテーマを扱う。本発表の目的は二つある。一つ目は現象を救うための記述的な芸術の定義論を提唱することである。二つ目は、選言的定義における「機能的」選言肢と「手続き的」選言肢の互換性を論証する上で、選言的定義のもう一つの可能な形態、即ち二つの「機能的」選言肢から構成される簡素な選言的定義を提示することである。

元を辿れば、分析美学における「芸術とは何か」という問いは一部の芸術の現象が芸術の理論にカバーされなくなったことに起因している。哲学者が芸術の定義を追求する際に、求められるのは現象を忠実に反映し包括する記述的な定義である。また、現場の困難を解消するためには、その定義は伝統的な芸術に馴染んだ鑑賞者たちに、伝統的ではない芸術の鑑賞方法、俗にいえば「見どころ」を提示しなければならない。現象に即し、現象を救う。本発表ではこのような現象本位の芸術の定義論が提唱される。

ここ数十年有望視された選言的定義の一般的な構造形式は「少なくとも一つの『機能的』選言肢+少なくとも一つの『手続き的』選言肢」である。しかし「手続き的」性質は外的性質であるため、制度上歴史上の関係を示すが、芸術の「見どころ」は明示しない。本発表はその点の解決を模索する。

本発表は四節から構成され、以下のように議論を進める。

第一節では、芸術の定義論という問題域の現状分析を行い、現在有力と思われる選言的定義の優位性を説明する。M.ビアズリーの機能主義、G.ディッキーの制度主義、J.レヴィンソンの歴史主義、そしてR.ステッカー、S.デイビス、B.ガウトらの選言的定義を取り上げる。

第二節では、「如何なる定義が求められているのか」という問題を検討する。辞書的、記述的、規定的、解説的、明示的定義などの定義の類型を紹介し、芸術の定義は記述的であるべきだと明確にする上で、現象本位の選言的定義が望ましいと主張し、「機能」と「手続き」のハイブリッド型選言的定義における調整の必要性を示唆する。

第三節では、「『手続き』を『機能』に還元することは可能か」という問題を検討する。まず、パラダイム転換理論と「通約不可能性」概念を分析し、「機能」と「手続き」は通約不可能ではないと論ずる。次に、「指示する集合が同一であれば、二つの述語は同値である」という原理に基づいて、ある「手続き的」選言肢と同値の「機能的」選言肢を仮設することができる。よって、「機能」と「手続き」は互換できると示唆する。

第四節では、選言的定義のもう一つの可能な形態である、二つの「機能的」選言肢から構成される簡素な選言的定義の提示を試みる。「美的な性質」以外のもう一つの「機能的」選言肢になり得る候補の検証も試みたい。

自己理解の自由としての表現の自由

10:10-10:40 /村山 正碩(一橋大学)

本発表では、表現の自由をめぐるジョナサン・ギルモアの議論を検討し、その問題の指摘と改善を行う。世界人権宣言や日本国憲法にもあるように、表現の自由は基本的人権の一つとして広く認められている。他方で、ヘイトスピーチやポルノグラフィをめぐる近年の激しい議論が象徴するように、いつ、なぜ表現の自由に制限を課すべきかという根深い問題も存在している。表現の自由は無制限に認められるわけではないかもしれない。とはいえ、表現の自由を全面的に否定することは受け入れがたいに違いない。

ここで、私たちは表現の自由をめぐる原理的な問いに直面する。なぜ表現の自由は保障されるべきなのか。言い換えれば、表現の自由を保障すべき根拠は何か。この問いに応答するため、本発表はギルモアの議論を参照する。ギルモアの議論は二つの特徴をもつ。第一に、彼の議論は話者の利益に基づいて展開される。表現の自由の擁護論は聴者や第三者の利益のみに基づいて展開されることが少なくないが、そのようなアプローチは話者の利益を見過ごしている点で不十分だと彼は主張する。話者の利益に基づく議論は先行研究にも見られるが、そこで表現の自由は個人の自己実現を保障したり、構成したりするものとして擁護される。しかし、そこで自己実現の内実は必ずしも明らかではない。ギルモアの議論の第二の特徴は、表現の自由に関わる自己実現の内実を具体化する点にある。彼によれば、話者が自分の思考や信念、欲求を表現することは自分自身を理解するうえで基本的な役割を果たす。興味深いことに、この点は第一に画家が絵を描くといった芸術制作に関して指摘され、ついで表現行為一般へと拡張されるかたちで議論される。ギルモアの議論が正しければ、私たちは表現行為を行うことなしには自分自身を十分に理解することが困難であるか、不可能である。

本発表では、この議論には無視できない問題が存在することを指摘する。表現行為は表現プロセスと伝達行為という二つの段階をもちうるが、ギルモアの議論はこの点に留意していないために、表現の自由の部分的な正当化、すなわち、表現プロセスの自由の正当化にしか成功していないのである。ただし、彼の議論は伝達行為の自由を正当化するための資源を提供している。本発表では、ギルモアの議論に登場する表現行為を二つのカテゴリーに区別することで、ある種の表現行為では、表現プロセスと伝達行為が不可分であることを示し、その種の表現行為に関していえば、表現の自由は十全に正当化されうると主張する。