〈一般発表・分科会3〉 日本の美学・芸術学

8月 31, 2022

10月15日(土) 12:00-14:10
会場:東3号館301号室(K301)
司会:井戸 美里(京都工芸繊維大学)

上田秋成における煎茶の美学——『茶瘕酔言』の読解を通じて

12:00-12:40 /島村 幸忠(京都芸術大学)

本発表は、江戸時代後期の文人・上田秋成(1734〜1809年)が晩年に著した煎茶書『茶瘕酔言』(1807年頃)の読解を通じて、秋成における煎茶の美学について考察するものである。

日本には、茶の湯とは異なる茶文化、煎茶がある。煎茶は、文人趣味の一つとして、江戸時代前期に臨済宗黄檗派の禅僧たちによって中国より伝えられ、江戸時代の後期には日本の文人たちにとって不可欠なものとなった。文人たちは書画や文房の傍らで、ある時は友とともに、またある時は独りで煎茶を嗜み、風雅な時を過ごした。

秋成は江戸時代後期を代表する文人煎茶家の一人である。特に、煎茶の手順や道具が説かれている『清風瑣言』(1794年)は、田能村竹田(1777〜1835年)などをはじめとする、その後の文人たちに大きな影響を与えた。対して、最晩年にものされた『茶瘕酔言』には、断片的なかたちではあるものの、秋成の煎茶に対する考えがより明確に示されている。

秋成と煎茶の関係については、例えば、坂田素子「上田秋成と煎茶道」(1963年)といった先行研究が備わる。坂田によれば、「秋成が茶に求めたものは「清」の一字につきている。彼はこの濁つた世の中から強いて逃げようとはしなかつたが、一煎の茶にしばし心を澄まそうと試みた」という。あるいは、佃一輝は「「去俗」と「清」——煎茶の美意識の変遷」(1999年)において、「清」が「貧」という生き方に裏打ちされているものであることを強調している。煎茶の「清」とは、単に道具の清潔さや、世俗の塵を払ってくれるものというだけでなく、秋成の生の様式にも深く関わる問題でもあったのだ。

以上の通り、秋成の煎茶の美学の核にあるのは「清」である。発表者もそのことについては疑問を持たない。しかし、その「清」についてはいまだ論じられていない点が残されているように思われる。それは、先行研究が『清風瑣言』や煎茶に関する和歌を主に扱い、『茶瘕酔言』に余り注目してこなかったためである。しかし、『茶瘕酔言』の末尾で秋成はやはり「清」に言及している。

そこで本発表では、『茶瘕酔言』を中心に扱うことにする。特に、秋成が「智(識)」と対比させて、煎茶を「才(能)」=「清」と定義している点に注目したい。この「才」と「智」に関しては、徳田武の「上田秋成と蘇東坡」(2010年)において論じられており参考になるが、同論はあくまで秋成に対する蘇東坡の影響を跡づけたもので、「才」と「智」の対照が有する意味については明らかにしていない。対して本発表では、「才」と「智」が登場する秋成の半自伝的随筆『胆大小心録』(1808年)に着目し、『茶瘕酔言』での議論を理解するための補助線とする。そのうえで、秋成の人生において、「清」を目指す煎茶の実践が文を書く「才」に通じるものであったことを明らかにする。この考察は、これまで重要な言葉とされつつも、詳しく論じられてこなかった『清風瑣言』の末尾の「唯ゝ煎茶は文雅養性の技事而已」という言葉の注釈ともなるだろう。

美と生活の結びつき——高山樗牛と柳宗悦における「自然」

12:45-13:25 /足立 恵理子(京都大学)

本発表では、高山樗牛(高山林次郎、1871-1902)と柳宗悦(1889-1961)の思想を取り上げ、両者の比較検討を通じてその異同を示し、日本における美学思想史の一端を明らかにすることを目的とする。

高山樗牛は1901年に「美的生活を論ず」を発表し、表題の通り「美的」なものと「生活」とを主題に据え、「幸福」を実現することを目的として、「美的」なものを「生活」において追求することを要求した。一方で、柳宗悦も同様に人生における価値の追求から、その思索活動を開始し、一般にもよく知られる「民藝運動」の展開も含め、「美」と「生活」とを自身の思索の中心に置き続けた。

「美的生活」という語がはじめて提示されたと考えられる高山樗牛の「美的生活を論ず」について、例えば小田部胤久は「この論考の意義はむしろ、20世紀前半における日本の美学的思考をある意味で先取りしている」ことであると述べ、また「『美的』と『生活』の二つの語」については、それらが「直ちに結びつくところに美学の東アジア的受容の特質」を指摘している。本発表ではこうした主張に問題意識の一端を預けつつ、高山と柳において「美」と「生活」とが結びつくことの内実を明らかにし、それらの思想の背後に「自然」との関わりが共通して見出せることを指摘する。

本発表では、まず柳による高山の受容を資料上で示したのち、高山と柳のそれぞれの思想における「美」と「生活」というそれぞれの言葉の内実と関係性を検討する。その過程で、両者の共通点として、①「美」と「生活」とを結びつけて捉えること、②「絶対」と「相対」という問題意識が「美」の問題に重ねられていること、③「美」の原理として「自然」が重要な役割を果たすことの三点を見出す。そして、最後に③の点を中心的に取り上げ、両者の「美的生活」の背後に存在する規範としての「自然」について考察する。そこでは、「自然」という言葉が「美」との関連で共通して使用されながらも高山と柳とでは異なる実質を示すことが明らかとなる。すなわち、自然の景物のあり方を比喩的に用い、模範とすることで形而下的次元において「自然」を参照する高山と、形而上的次元においてある種の摂理として抽象的に「自然」を把握する柳の思想である。以上のような理解が、本発表を通じて導かれるだろう。

日本における西欧の和声理論の受容と和声学の展開 ——訳語と和声記号を中心に

13:30-14:10 /西田 紘子(九州大学)

西欧の音楽理論、特に和声理論に関する研究史は長く、近年は特定の和声理論が各国でどのように受容されてきたかの研究も進んでいる。例としてフーゴー・リーマンの和声理論の受容研究にHoltmeier(2011)や西田・安川(2021)がある。一方、日本における受容研究に目を向けると、音楽学分野全体の観点に比べて(仲 1989、鈴木 2019)、その一部とされる音楽理論の受容研究は僅少である。明治期から戦後に至る和声学の教科書の傾向を概観した森田・松本(2008)はその先駆であり、東京音楽学校における作曲教育資料から当時の和声教育を詳らかにした仲辻(2019)が続く。このように、受容を探る基礎となる一次史料は広範であり、日本における音楽理論の受容研究の進展が望まれる。

そこで本研究は、和声に特化した書籍が出版された明治末期から、芸大和声と呼ばれる島岡譲らの『和声――理論と実習』(全3巻)が出版される昭和40年代までの和声理論や和声学の出版書籍70冊程度を対象に、以下の点から受容の特徴と歴史を明らかにすることを目的とする。すなわち、第一に西欧の和声概念をどのように翻訳するか、第二に和声に関わる記号をどのように表記するか、の2点である。これらに着眼したのは、訳語や和声記号の差異から、受容と定着の過程を辿ることができると仮定したためである。

方法として、対象とした書籍を、形態や参照元の和声理論・和声学、理論と実践の度合いなどから分類した上で、訳語と和声記号を中心に特徴を導き出すという手順をとった。その結果、執筆者の留学先やそこでの師の影響を色濃く反映した翻訳型の書籍が戦前は大半であるが、これらは⑴訳書、⑵原語を併記するなど参照元に忠実なもの(例:下總 1935、諸井 1941)、⑶複数の音楽理論から概念を選択し合体させるもの(例:島崎・福井 1904、小松 1958)に分かれ、世代を経ると⑷日本国内における師の影響も反映されたもの(例:長谷川 1950)や、⑸日本や東洋の音楽も論じたもの(例:小松 1942、松平 1955)、⑹参照元を明示しないもの、といった応用型の書籍も現れることが分かった。これらの種類に応じて、和声記号については①アラビア数字(いわゆる数字付き)、②ローマ数字の度数記号、③リーマンに由来する特殊な記号の活用に始まり、戦後に④①と②の混合、⑤TDSの機能記号の活用、⑥日本独自式が増え、一元化には至らない拡散的実態がみてとれた。訳語については、和声理論におけるどの概念を紹介するかは多様であるが、和声記号の傾向とは対照的に、和声学の基礎に関わる訳語・用語(隠伏5度など)は画一化されていく傾向が観察された。和声理論としての受容と、和声学の教授法としての展開がすみわけられていくこの過程に用語と記号の非対称性がみられ、現今にまで影響を及ぼしていると推論される。