〈一般発表・分科会4〉 語りをめぐって

8月 31, 2022

10月16日(日) 13:30-15:40
会場:東3号館101号室(K101)
司会:横道 仁志(大阪大学)

古代末期聖書叙事詩における叙事詩観の変容

13:30-14:10 /上月 翔太(愛媛大学)

本発表は、古代末期のラテン語聖書叙事詩人たちの叙事詩に対する認識を通じて、古代ギリシア・ローマ文学から初期キリスト教文学への展開の一端を明らかにする。

古代末期に、聖書の内容を古典文学の叙事詩の韻律であるヘクサメテルで歌う聖書叙事詩(Biblical Epic)と総称される作品が作られるようになった。その中で本発表が扱う3人の詩人は、初の聖書叙事詩ともいえる『福音書四巻Evangeliorum libri quattuor』を作成したユウェンクス(Juvencus)、『復活祭の歌Carmen paschlae』を作成したセドゥリウス(Sedulius)、『使徒の物語Historia apostolica』を作成したアラトル(Arator)である。それぞれ活躍した時期については、ユウェンクスがコンスタンティヌス帝の在位期間(306-337)の間ごろ、セドゥリウスがそれから約1世紀を隔てた時期(425-450頃)、そしてアラトルの作品はさらにそれから1世紀程度経た544年頃のものと考えられる。

これらの詩人たちがなぜ異教的古代の最も権威ある韻律であるヘクサメテルで聖書の物語を語り直そうとしたのかが発表者の主たる問題関心である。多くの研究が示しているような、教養ある層には聖書の素朴な文体が訴求力に欠けていたという背景は、最初期のユウェンクスの事例ではある程度当てはまるところがあると考えられる一方で、それよりも後代で、かつ聖書解釈についても展開を経ていたセドゥリウスやアラトルの時代にまでその韻律が用いられ続けていたのは興味深い現象である。キリスト教文学一般の社会的な位置づけの変化についてはいくらかの研究がみられる一方、異教的古代を代表する叙事詩というジャンルに対象を絞った議論はまだ十分ではない。

本発表は、各詩人が叙事詩をどのようなジャンルとして認識しているかを描き出し、比較することによって以上の問題に迫りたい。既に発表者は、ユウェンクスが英雄詩として叙事詩を捉えていること、続くセドゥリウスが英雄詩だけでなく教訓詩、牧歌などヘクサメテルの文学伝統(とりわけウェルギリウスの伝統)全体として叙事詩を捉えていることを指摘した。しかし、セドゥリウスが作品冒頭で自身を「ダヴィデの歌に通じた」存在として言及していることとの関係や、さらに後代のアラトルの叙事詩観についてなど、議論を尽くせていない点も依然としてある。また、そもそも古代において叙事詩というジャンルを英雄詩、教訓詩などに分類できるという認識が一般的でなかったことも改めて留意する必要がある。

本発表では、聖書叙事詩人が叙事詩という文学ジャンルを、まずホメロス的英雄詩として、次いでウェルギリウス的ハイブリッドな詩としての認識していること、また、時代を下るごとに、キリスト教文学の一形式としての叙事詩の意義や価値も積極的に提示していることを示す。具体的には、異教的古代とは一線を画すヒロイズムの提示や、叙事詩を詩編など聖書の文学に概念的、機能的に接近させようとする詩人らの戦略が示される。

「マイヤー・バウハウスは政党政治的だったのか?」——マイヤー解任以後のドイツ・ソ連におけるマイヤー・バウハウスをめぐる言説について

14:15-14:55 /岩澤 龍彦

本発表の目的は、マイヤー解任以後のドイツ、ソ連におけるマイヤー・バウハウスをめぐる言説を整理し、それがどのように映ったのかを検討し、標題の問いが有効かどうかを考察することにある。

マイヤー・バウハウスの政党政治性は、マイヤーがバウハウスを追放された直後から問題であった。マイヤーの公開状(1930年)は即時解任の不適当さを訴えたものであったが、その訴状ではマイヤーがバウハウスの共産化を抑止しようと努めていたことがわかる。彼の訴えによれば、マイヤーはバウハウスの学生が組織した共産主義グループを解散させ、国際労働者支援への募金は個人的なものでしかなく、それが政治的であったとしてもそれは政党政治的なものではなく、文化政治的なものでしかなかった。

しかしマイヤーの訴えはバウハウスをめぐるその後の言説において無効化されてしまう。なぜならば、フィリップ・オズヴァルトが指摘するように、『ウルム』誌上でグロピウスとマルドナードとの間で展開された文通(1963年)によってマイヤーの訴えは事実上、覆され、その後のバウハウス受容が方向づけられたからである。グロピウスはその文通の中で、バウハウスはいかなる政党とも同一視されてはならないとの立場に自身は立ったが、マイヤーは政治的唯物論によってバウハウスの理念を破壊し、その活動を座礁させた、とまで述べる。そして、マイヤーはバウハウスの共産化の真犯人と仕立て上げられ、バウハウスをめぐる言説において疎まれる傾向が形成されていった。

今日の研究では上の二つのテキストを主として、近年のマイヤー再評価を背景に、グロピウスの操作が見直され、マイヤーの言い分も認められるようになったが、マイヤーが渡ソ後に組織したバウハウス展に際して著したテキスト(1931年)と同展に寄せたモルドヴィノフによるバウハウス評(1931年)をみると、その論調は必ずしも正当ではないことが判明する。なぜならば、マイヤー自身が同展でマイヤー・バウハウスを「社会主義建築の教育機関としての「赤いバウハウス」」として提示しようとしたことこそが、それ相応に政党政治的な活動がマイヤー・バウハウスで行われていたことを示しているからである。

しかしながら、このマイヤーによる演出は失敗に終わった。なぜならば、マイヤーの提示した「赤いバウハウス」はモルドヴィノフにとってはイデオロギーの点で不十分であり、マイヤー・バウハウスならびにマイヤーの建築観は当時のソ連建築界にとっては芸術としての建築が欠如していたために不十分なものと映ったからである。

以上のことから、バウハウスの神話化の犠牲となったマイヤーであるが、公開状での政治性の否認とは矛盾する彼なりのバウハウスの演出もまた失敗していたと言わざるをえないだろう。そして、こうした経緯をふまえるならば、マイヤー・バウハウスが政治的であったかどうかを問うことは生産的な問いとはいえないであろう。

自由間接話法の政治的諸効果——パゾリーニ、ドゥルーズ、ランシエール

15:00-15:40 /鈴木 亘(東京大学)

ピエル・パオロ・パゾリーニは評論「ポエジーとしての映画」において、文体論的概念である自由間接話法――直接話法とも間接話法とも異なって、人物の発言や思念をシームレスに地の文に紛れ込ませる話法――を映画理論の領域に応用し、「自由間接主観表現」の概念を提示した。パゾリーニは、人物の行為を三人称的に捉える客観的なショットでも、人物の視点とカメラが一体化した主観ショットでもなく、人物や世界を外から捉えつつその人物の主観的ヴィジョンが反映された自由間接主観的ショットに、映画表現の新たな可能性を見出している。こうしたショットにおいて映画作家は、人物の主観的ヴィジョンを借りて作家自身の表現主義的美学を実現することができるからだ。

だがパゾリーニは、同時代映画における自由間接話法の使用を政治的観点から批判する。そうした表現は結局ブルジョワジーのイデオロギーが表出されたものに過ぎず、映画世界に存在するはずの階級間の差異を消失させる、というのがその理由である。

周知のようにこの発想はジル・ドゥルーズ『シネマ』に応用された。ポイントのひとつに、ドゥルーズはむしろ映画での自由間接話法に政治的可能性を見出していることがある。ピエール・ペローのドキュメンタリー映画について、撮影主体たる映画作家と被写体たる民衆とがカメラの自由間接的主観性において通じ合い、生成変化することで、支配者/被支配者のヒエラルキーが変容し、真の民衆の創出へと結びつくと論じる。そこにおいて自由間接話法は、マイノリティと映画作家の協働による政治的抵抗の謂となる。ここでドゥルーズは、自由間接話法の美的形式に注目したパゾリーニとは異なって、それが「物語(レシ)」に与える作用に着目している。

本発表はこうした先行議論を踏まえた上で、ジャック・ランシエールの芸術論を参照することにより、ドゥルーズとは別の仕方で映画における自由間接話法の政治性を引き出すことを試みる。両者は自由間接話法が既存のヒエラルキーを揺さぶると見る点では一致するものの、その力点は異なる。ドゥルーズがショットや物語における映画作家と登場人物の生成変化に着目する一方、ランシエールは映画作家の主体的身分をあくまで確保したうえで、作家による素材選択や技法の効果に注目している。ランシエールにおいて自由間接話法は、異質なものの組み合わせによる現実の再構築という意味での「フィクション」の操作に属するものであり、それにより既定の感性の枠組みを再編成する点で政治的たりうるのだ。こうした議論の導入により、ドゥルーズが省略した自由間接話法の美的形式面に新たな政治的可能性を与えつつ、パゾリーニが批判していた作品群をもその政治性において再評価することができる。本発表は以上を通じ、映画における自由間接話法の観念に新たな光を当てることを目指す。